生け花教室から考える解釈力

2011年2月14日daysTwitter,生け花

生け花を始めてから1年以上経ちました。
最近は生花(しょうか)という生け方を生け花教室で習っている。

生花は真(しん)・副(そえ)・体(たい)など花材に役割とルールをもって生ける。生け花教室では、同じ花材、同じルールで生けているが、出来上がりは人によってすべて違う。
それは花材は同じ種類でも同じ物は一つとしてないというのもあるが、同じルールで生けても生ける人によって変わるというところが今回の話したいところ。ルールがある上で生ける人の感性が違いと変化がつくられる。



ここで、生け花の作品をみるとき、多くの人がキレイだと思うだろう。しかし、その作品には生けた人がこめた意図や意思が含まれている。生けた人が含めた要素を読み取ることには「解釈力」が必要になる。

生花(しょうか)の理論や枝ごとの役割、見せ方などを知っている上で、作品をみるとその意図や意思に気付き解釈し、作品の深みが見えてくる。枝の位置、枝や花の向き、枝の高さなど一つ一つの小さな要素にそれぞれ意がある。
これが生け花を習っておらず知らない人が見ても、解釈することは難しい。何かを感じることはあるだろうけどね。

解釈力は情報通ではなく学びがある状態でなくては得られないのではないだろうか。学び理解を深めることは、生ける側の表現力を高めると共に作品を見る側の解釈力を高めることになる。

見るときにはこのような背景を持っていないと意を汲み取ることは難しい。生け花をやっている人は生け花を習うことや流派に所属することで同じ環境の人が集まる場所があり、そのなかでのコミュニケーションはお互いに一定の解釈力がある上で行われている。生ける人も同時に見る人であり相互に作用する。

生け花のように背景を同じとする人たちの集合は、解釈を互いに行うことができるのでその背景や作品の意を共有しているとも言えるのだろうね。
話は変わるがtwitterでは突如タイムラインに流れてくるRTなどはその背景を汲み取れない人も多く存在し意を理解していないだろう言葉や態度もあり、時には衝突が起こる元にもなっているように感じる。ツイートを受ける側に解釈力が求められるのだろうね。生け花のように背景や意を共有することが求められるとも言えるのだろうか。

まとまらない文章になってしまったが、今日はここで終わりにしておこう。

※写真の生け花は昨日、生け花教室で僕が生けた2種生けの生花(しょうか)で、花材はボケ(枝物)とアイリス(青い花)です。
僕の師匠、池坊生け花教授 小宮梨絵のサイトはこちらです。
http://komiyarie.com/